グイノ・ジェラール神父の説教
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年間第14主日A年 2014年7月6日 グイノ・ジェラール神父
ザカリア9,9-10 ローマ8,9,11-13 マタイ11,25-30
ご存じのように父なる神を褒め称える前に、数多く奇跡を行なわれたにもかかわらず、回心するのを拒む人々に対して、イエスは怒ってその町や村に下される裁きの忠告をしました。 「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった」(マタイ11,17)。 「コラジン、お前は不幸だ。 ベトサイダ、お前は不幸だ。 また、カファルナウム、お前は、陰府にまで落とされるのだ。 お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。 あなたたちは皆回心しようと一度も考えなかった」(参照マタイ11,21-23)。 そう言ってから、無関心な人々に対して自分が怒っていたことを忘れて、イエスは急に自分の父なる神を賛美し始めます。 それは自分に委ねられた宣教の使命の失敗の中に、イエスは「天と地の主」の父なる神の愛で満たされた現存を認めているからです。
数か月前からイエスは、ガリラヤ地方の方々を歩き宣教されました。 イエスが行う奇跡を見るため、或いはイエスによって癒されるため、イエスの話を聞くために、初めの間は全ての人が、イエスを追いかけていました。 しかし、イエス自身と彼が行っている奇跡に対して、大祭司と律法学者の不満を引き寄せます。 キリストがご自分の使命を初められた時から、彼らは公に自分たちの警戒心や敵意やイエスを殺す企みをはっきりと見せます。 民の指導者たちを恐れている群衆は、段々イエスを避けるようになります。 ただ、イエスの弟子たちだけが揺るぎない信頼を示し続けます。 弟子たちはファリサイ派と律法学者の人々のように優れた知識を持ってはいません(使徒4,13)が、彼らはイエスが神に遣わされたメシアだと悟りました。 たぶん、メシアの役割に対して幻を弟子たちは抱くかも知れませんが、彼らはみんなイエスと一致しています。
イエスと共に弟子たちは福音宣教の難しさを担い合います。 彼らの日常の生活も安逸なものではなく、確かに彼らもイエスが話している重荷を負っている人です。 そしてまた、この重荷は政治的・経済的・宗教的なものです。 イエスと弟子たちは先ずローマの占領を耐え忍んでいます。 次に、彼らはずっと歩き回っているので不安定な状況で生き、そして、宗教界の権威のある人が彼らをずっと見張っています。 イエスは政治的・経済的には別に何もしませんが、民の指導者たちが自分の言葉と行いによって人々に強制的に担わせる重荷や軛を厳しく批判します。 さらに、律法学者とファリサイ派の人々に向かって「あなたたちは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(マタイ23,4)という厳しい言葉を言うことをイエスは恐れていません。 ファリサイ人と律法学者に相反して、イエスは条件のない赦しと愛を提案しています。 神と隣人を愛することによって人は自由になり、個人的にあらゆる面で成長します。
律法学者と大祭司のせいで受けた宣教の失敗を前にして、更に、素朴な人々と貧しい人々が自分に捧げる歓迎を前にして、イエスは自分の心から神への賛美と感謝の祈りが湧き出します。 イエスは決して偉い人たちの否定と妬み、また、素朴な人の軟弱な信頼に対して絶望しません。 私たちもイエスを真似て自分たちの悩みを持っていてもその悩みの中から神に向かって祈ること、そして、出会うすべての困難や試練の状況の真っ只中にいて、神への賛美の道を探し求めることを学ぶ必要があります。 あまりにも何も出来ない私たちは、神にとってはご自分が大好きな貧しい人の数に数えられているのです。 そのために、「わたしのところに来なさい」というイエスの呼びかけは、私たち一人ひとりのためにあります。 その呼びかけを受け止めるように、謙遜で神に信頼を持つ者でなければなりません。 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから」(マタイ11,28)。
私たちの喜びはどこから来るのでしょうか? この喜びは私たちの生き方や試練や祈りから湧き出ているのでしょうか? 喜びは分かち合うものであり、愛と平和の道でもあります。 喜びはまた、聖霊の賜物であります。 イエスと共に自分の軛を負うことは、それは自分たちの心に、聖霊が神の子イエスの似姿を移すことを可能とすることです。 聖霊の喜びによって、私たちはイエスのように「柔和で謙遜な者」となります。 神が私たちを愛しているということを知る喜びが、私たちの心に留まりますように。 そうすれば、試練の時も、すべてが上手にいく時も、賛美と感謝が絶えず私たちの心から溢れるに違いありません。 アーメン。
年間第15主日A年 2014年7月13日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ 55,10-11 ローマ 8,18-23 マタイ13,1-23
生まれ、芽生え、育て、すくすくと成長するものをご覧になることが、イエスは大好きです。 特にイエスは神の国の成長について深い興味を示します。 種を奪う小鳥や道の小石や茨などが、種をまく人の仕事を決して妨げることが出来ず、また彼が抱いている豊かな穀物の収穫の希望を奪うことも出来ません。 同じように、私たちの心に巻き散らされた神の言葉は、必ず神が望まれる実を結ぶでしょう。 神は自由に私たちの内のあらゆるところで不思議な種をまき散らし続けます。 なぜなら、私たちは神のために素晴らしい麦の畑と喜びの収穫になるように、永遠の昔から召されているからです。
神は、何もお考えにならずに、ご自分の言葉を偶然には任せません。 神はご計画を持っておられます。 それは私たちを「愛の完成に」導く計画です。 そう言う理由で重大な道案内として神はご自分の言葉を与えながら、私たちを独自な完全さの方へ、即ち神ご自身の聖性の方へ、私たちを引き寄せます。 「わたしの口から出るわたしの言葉はむなしくは、わたしのもとに戻らない。 それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザヤ55,11)と神は、はっきりと断言します。
毎日、私たちの歩みと共に、積み重なって段々と山のようになっている、邪魔なものや妨げるもの事で、私たちの心をふさいでしまっています。 ですから、神のみ言葉に対して耳が聞えず目が見えず、不注意な生き方で怠惰な者である私たちが、その中から解放されることは肝心です。 そのために、宣言されている神の言葉を守り、思い巡らすように私たちは努力しなければなりません。 特に良い土となるためには、気晴らしや心配、偏見や不信などのおもな妨げから遠ざかることが必要です。 また、聖霊がよい実を結ぶ土を深く耕すように願いましょう。 さもないと、どのようにして私たちが立派な麦の穂になるのでしょうか? 刈り入れてから、この麦の穂は美味しいパンになるべきですから。 ご存知のように神はこのパンを取って、全人類を養い救う、ご自分の子「イエスの御体」と「命のパン」に変えますから。
世の初めに始まったことが完成されるまで、神は決して諦めずに休むことなく、絶えず行い続けるでしょう。 確かに主イエスにおいて、神が愛の完成と永遠の栄光にまで私たちを導く約束を私たちは受けました。 神の言葉は命に溢れていて、幸せと抑えきれない力で満ちています。 私たちが宣言するこの言葉は、自分たちの心に住みに来られるイエスご自身であることを私たちはよく知っています。 ですから、私たちの人生がいつまでも豊かであるように絶えずイエスを受け入れ、彼の内に留まり、そして彼によって父なる神が待ち望んで、約束されている百倍の実りを実らせましょう。 アーメン。
年間第16主日 A年 2014年7月20日 グイノ・ジェラール神父
知恵12,13、16-19 ローマ8,26-27 マタイ13,24-43
私たちは皆、神の愛と聖性の内に創られています。 何故か分かりませんが、ある人々は神から離れて、悪への道を選ぶのです。 今日のたとえ話によると、天の国から追い出されている人は無神論者とキリストを信ずることを拒む人ではありません。 キリストの話では、悪い者と呼ばれた人は「つまずきとなる全ての者と不法を行う者です。」 しかし、悪い者と良い者を別々にしないことや既に芽生えた良い麦と毒麦を一緒に育てることは必要なことです。 何故なら、既に芽生えた良い麦と毒麦は非常に似ているからです。 悪は全ての人におよびます、信者にも信者でない者にも。 今日のたとえ話は私たちが兄弟姉妹の審判者とならないことや、何が「よい」か「悪い」かを、自分勝手に一人で決めないことを要求します。 何故なら世の終わりに神御自身が正しく裁かれるからです。
人が自分勝手な思いで整理することをこのたとえ話によってイエスは禁止しています。 何故なら良い麦と毒麦が私たちの内にも、私たちの周りにもあるからです。 最後の審判は人間の歴史が終わった後で行われるでしょう。 と言うのは「悪い者」を排除することや自分自身を正義の味方の様に振る舞うことは、とても危ない誘惑です。 自分が正しい、他人を裁く権利を持っているということを信じるのは大きな間違いであり、自分自身が神のようになる危ない傲慢な態度です。
イエスのたとえ話は、皆が考えていることに答えを与えようとします。 どうして神が迫害者(躓きとなる者)を滅ぼさないのでしょうか。 どうして神は弱い人々を搾取する人や詐欺を行う人や悪口を云う人(不法を行う者)をずっと、何もせずに、放っておくのでしょうか。 確かに神が沈黙しているように見えるのを前にして、社会、教会、世界を清めようとする人が必ず現れます。 しかしイエスは裁きの時がまだ来ていないと説明します。 毒麦がいつか良い麦に変化するように、その毒麦にチャンスを与えなければなりません。 これを理解する為に悪の道を離れて偉大な聖人となった人々を思い出しましょう。 (例えば、マグダラのマリア、パウロ、アウグスティヌス、アシジのフランシスコ、フォリニョのアンジェラ、など)。
イエスのたとえ話は道徳の教えではありません。 また良い振る舞いの戒律でもありません。 イエスは父なる神の心しか示さないからです。 罪びとが悔い改めることが出来る事を信じて、神は忍耐強く待っておられます。 神の似姿に創られた私たちは神の態度を見倣うことが必要です。 第一の朗読は私たちに次の事を思いださせます「神は全てに心を配っています。 そうすることで、神の裁きは不正でないことを証しています」。 神は無限の愛であることを私たちは容易には承諾できません。 正しいと思われた人々(例えばダビデ王、預言者ヨナ、ヨブ、そして福音のファリザイ派の人々)が、神の寛容な態度と罪びとに示されたイエスの態度に対し、腹を立て反逆していることを聖書は何度も見せています。 「主よ、いつまでこのように続けるのでしょうか」(詩編6,4)。 「主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか」(黙示録6,10)と彼等は叫び続けます。
どこにでも悪はあります。 私たちはもっと良い世界や汚れのない教会を望んでいるので、悪い状態を起こしている人を捜し求める傾向をもっています。 誰が悪いのかという犯人捜しをするよりも、神のように忍耐強くなって、罪びとが悔い改めて、回心するのを祈る方がよいのではないでしょうか。 何故ならイエスは確かにご自分の教会の中で、善い人と悪い人の交わりを承諾して、受け入れておられますので。 もっと悪いことは、イエスが罪びとに自分の好意を示すことが躓きとなっていることです。 しかしすべてを耐え忍ぶイエスは、人間の心をよくご存知です。 例えば、素晴らしい行いの中にも、時々考えられない高慢な態度が隠されていることがあることをイエスは知っています。 また、外面的な目立つ欠点が最もよい長所を隠していることもイエスは知っています。 ですからイエスは善い人も悪い人も全ての人が回心するのを待ち望んでいます。
他の人が回心する期間を待ちきれないような人にならず、むしろイエスと神に倣いながら「聖霊が私たちの弱さを助けていることを」忘れないようにしましょう(ローマ8,26-28)。 ご自分の国が完成されるのを神は早くご覧になりたいのです。 しかし罪に傷ついている世界に対して、慈しみを持っている神は、どうしても強く忍耐しなければなりません。 「知恵の書」が教えたように、神は全能の神でありながら「寛容を持って裁き、大いなる慈悲をもって私たちを治められます」(知恵12,18)。 ですから諦めずに出来るだけ同じ態度を現しましょう。 大切なことは目に見える事ではなく、約束された物事を見通すことが出来るように努力しましょう。 つまり、芽生えた毒麦やとても小さいカラシ種や小麦粉に入っているパン種を考えないようにしましょう。 代わりに希望に溢れる目で、小鳥が枝に止まって歌えるようになった大きな木や、大勢の人々を養う美味しいパンを見分けましょう。 そうです、この世の中で隠されている、いつか神の国となる全ての永遠の芽生えを発見する恵みを神に願いましょう。 そうすればきっと神のように私たちも忍耐強い、憐れみ深い人となるに違いありません。 アーメン。
年間第17主日A年 2014年7月27日 グイノ・ジェラール神父
1列王3,5-7、12 ローマ8,28-30 マタイ13,44-52
ソロモン王に倣ってイエスの弟子は「聞き分ける心、善と悪を判断する心を」神に願っている人です。 この知恵の恵みによってイエスの弟子は「自分の心から新しいものと古いものとを取り出す」ことが出来るのです。 即ちイエスの弟子は、捨てるべきものと守るべきものの仕分けの知恵を持っている人です。
今日、色々なたとえ話を通して私たちが、貴重な宝物や値打ちのある真珠であることを発見するためにイエスは招きます。 私たち一人ひとりが神の目には尊いです。 私たちを愛していることを示す為に、神は全てを与えて下さった方です。 神は「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつけました」(イザヤ49,16)と言われます。 高価な真珠や隠されている宝物を発見することは、それは先ず無限の愛で神が私たちを愛していることを発見し、承諾することです。
それを理解するためには、福音のザアカイのようにキリストに見つけられて、見つめられ、愛されることが第一条件です。 神が自分を愛していることを体験することによって、私たちが他の人を愛することは容易になります。 隣人を愛する人は、高価な真珠や隠されている宝物がキリストでもあることを悟ります。 キリストの愛、そして私たちの傍におられるキリストの現存は全ての人に与えられている貴重な恵みです。 しかしこの贈り物は強制的に与えられていないので、私たち自身が自由にそれを頂かなければなりません。
洗礼を受けた時に私たちが受けた恵みは、自分の内にあるイエスの豊かな現存です。 イエスとの出会いのお蔭で、私たちの生き方が変容されました。 私たちは生きている、復活したキリストの証人となって「聖霊によって、わたしたちの心に注がれた神の愛を」(ローマ5,5)表す使命を受けました。
神自身の命に与るために、探すべき宝物と高価な真珠は、キリストに従って私たちの心の中にある聖霊によって真理を持って愛することです。 第二の朗読を通して聖パウロは、これについて証ししています。 「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」と。
詩編119番も同じことを教えています。 「主よ、わたしは言いました、わたしに分け与えられたのはあなたの言葉を守ること(詩119,57)。 あなたの口から出る律法はわたしにとって幾千の金銀にまさる恵みです(詩119,72)。 それゆえ、金にまさり純金にまさってわたしはあなたの戒めを愛します(詩119,127)」。 確かに私たちは神の御言葉を完全に理解したとは言えないでしょう。 聖書は私たちが発見しつくすことの出来ない、いつも新たにされた宝物のようであり、貴重な真珠のような教えを提案するからです。 同じように毎日曜日に当たって、典礼は私たちが不思議な発見をするように招きます。 その理由で注意深く耳を傾けて、知恵を尽くして、典礼が提案する朗読を味わいましょう。
神の国は、貴重な宝物として、高価な真珠として、私たちの心の奥底に隠れています。 ですから、それを見つける為に神の愛に自分の心を開きましょう。 そうすれば、見つけた宝を深く味わうように、神が必ずその心をご自分の喜びと知恵で満たすでしょう。 アーメン。
年間第18主日 A年 2014年8月3日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ 55,1-3 ローマ 8,35,37-39 マタイ 14,13-21
イエスが人里離れたところに退かれたことをマタイは二回続けて述べています。 事実、イエスは危険な状態を避けようとしました。 一回目は洗礼者ヨハネが捕らえられた時、二回目はヘロデ王が洗礼者ヨハネの首を切ったことをイエスが耳にした時です。 既に、イエスはナザレの同郷の人々から追い出されたこともあり、はっきりした証しのせいで自分の従兄弟ヨハネが命を失ったこともあり、イエスは皆から離れて、ゆっくり考えたいと望みました。 しかし、群衆はあっと言う間にその希望を妨げます。 マタイはこの混乱した状況の中でパンの増加の話を書き記しました。 確かにイエスは反省と祈りの時間を取ろうとしましたが、ご自分の方へ走って来る群衆を見て、深い憐れみを抱いて、イエスはご自分の計画を忘れてしまいます。
マルコとルカの証しによれば、イエスは色々と教え、神の国について長く語り、治療の必要な人々を癒していたそうです。 ヨハネとマタイは、イエスが人々を食べ物で満腹させたい事を大事に述べています。 夜が近づいたので弟子たちは群衆を解散させようとしますが、イエスは弟子たちに「あなたがたが人々に食べる物を与えなさい」と命じます。 そこで弟子たちが自分の残っている食べ物をイエスに持って来て差し出します。 この五つのパンと二匹の魚で、イエスは数えきれない群衆を養います。 このイエスの行いは人々を解散させて、彼らの問題に対して無関心で無責任な態度を取らないようにするためにと、ご自分の弟子たちに教えています。
世を救うために神は人々を探し求めます。 ですから神は私たちの協力を望まれます。 捧げられた物がささいな物で、ほんの少しであっても、神は私たちから何でもお願いされます。 それらのものがなければ分かち合いや分配は無理ですから。 パンの増加のしるしを通して、イエスは近いうちにご自身が命のパンとなることを告げています。 分かち合うべき「命のパン」であるイエスは、私たちを強め、養い、癒します。 「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われました。 『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である』」(ルカ22,19)と。
マタイが述べているイエスの全ての動作は、主の晩餐の出来事を思い起こさせます。 イエスは、天を仰いで、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに渡し、群衆に分かち合います。 このようにしてイエスは愛によって自分の命を捧げること、また自分自身が私たちの存在の糧であることをあらかじめ宣言しています。 聖体の秘跡はキリスト教的な生活全体の源泉と頂点です。 ご自分の「命の言葉」とご自分の「体」を糧として与えることによって、イエスは私たちの内に愛する能力と分かち合う能力を強化します。 それによって、私たちの日常生活は分かち合いと豊かさが溢れる場となるのです。
この世の問題を避ける為に、神の内に避難所を見つけることをミサ祭儀は決して教えていません。 むしろ、神が私たちに無償で与えて下さった豊かさを、他の人々に分ち合うことが出来るように、ミサ祭儀はいつも私たちを遣わします。
ミサに与かる度に、イエスは私たち一人ひとりに次のことを繰り返します。 「平和の内に行きましょう。 あなたがたのところへ来る人々に何かを食べさせてください。 あなたの五つのパンやあなたの二匹の魚、パンのくずでも構いません。 それを与えなさい。 その後のことは私に任せなさい」と。 私たちが持っている物で、私たち自身の全てで、私たちが与える全ての物で、イエスは神の国を造りあげます。 確かに、愛と分かち合いは神の国の堅固な土台です。 アーメン。
年間第19主日A年 2014年8月10日 グイノ・ジェラール神父
1列王9,9、11-13 ローマ9,1-5 マタイ14,22-33
キリストの教会は小舟にたとえられています。 確かに教会は「ペトロの舟」と言われています。 この舟に乗っている人は危険から守られているので、ある意味でこの舟はノアの箱舟によく似ています。 また教会の船についてはフランスのパリの紋章に書かれた言葉が、教会にも当てはまるでしょう。 それは「fluctuat nec mergitur」つまり、「この船は揺り動かされても絶対に沈みません」。
陸に残っている人にとっては、つまり、私たちの信仰に与らない人々にとって教会は足踏みをし、あまり前に進めないものです。 彼らや教会を批判することを喜ぶ人々にとって、教会は硬直しているものであり、現代の時代の流れから随分離れたものです。 もっと悪いのは、教会は「ガレー船」であり、それに乗っている人は皆、まるで船を漕がされている奴隷です。 そのように思う人にとっては、キリスト者には自由がなく、盲目的で、皆が同じ方向に進まなければなりません。 また非難や迫害の嵐によって揺れている教会は、近いうちに沈没すると言う人もいます。 証拠として「ちょうど沈んでいる船からネズミが逃げるように、たくさんの信者、特に大勢の若者が教会から出ている」と彼らは主張します。
しかし、幸いなことに私たちは、教会がノアの箱舟のように安全なものだとよく知っています。 何世紀にも渡る迫害の洪水や非難と侮辱の津波が、一度も教会を破壊することはありませんでした。 確かに、キリストの教会は「救いの箱舟」であり、またキリストが約束されたように「地獄の力もこれに対抗できません」(マタイ16,18)。
いずれにしても、私たちは教会の舟に乗っていて、一生懸命に神の眼差しのもとで舟を漕いでいます。 大きな波や思いがけない嵐がなくても、前に中々進まないので、漕ぐのを諦めて、もう漕がない兄弟姉妹がいることを残念だと思います。 きっとこの兄弟姉妹は、流れに逆らって漕ぐことに疲れ果て、舟の中で寝る方が良いと決めたのでしょう。 実に、諦めずに流れに逆らって漕ぎ続ける人は少ないです。 しかし、寝ている人も、漕ぎ続けている人も皆、自分たちを救い、安全に港まで導くイエスが一緒にいることをよく知っています。
神の権能をもって、イエスは世の終わりまで私たちと共におられます。 イエスは決して恐怖を与え、麻痺の状態に陥れる幽霊ではなく、むしろ喜びの飛躍によって私たちを遣わす復活されたキリストです。 必要であれば、キリストは時々必要な人に海の上を歩く可能性を与えるのです。 つまり無理だと思われることを実現する恵みを人に与えるのです。 すると恐怖、遠慮、噂によって今まで出来なかったことを、その人は容易に出来るようになります。
今日、イエスは私たちに言い続けます。 「勇気を出せ。 信じなさい。 恐れることはない、私だ。 私は世の終わりまで毎日あなたがたと共にいる」。 そうであれば、教会をあざ笑い迫害する人々や教会から出た兄弟姉妹に向かって、教会の舟の中で漕ぎ続ける私たちは聖パウロと共に誇りを持って、次のことをはっきりと彼らに聞かせましょう。 「私たちは何も恐れません。 私たちを強めてくださる方のお陰で、私たちにはすべてが可能です」(フィリピ4,13)と。 アーメン。
年間第20主日A年 2014年8月17日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ 56,1、6-7 ローマ 11,13-15、29-32 マタイ 15,21-28
イエスがティルスとシドンの地方、即ち現在のレバノンに行かれた時、この地に生まれたカナンの女がイエスに出会いに来ました。 彼女の娘が異邦人の国を支配している悪霊にひどく苦しめられていましたので、自分の娘を救うために、悲しみに沈んだカナンの女はイエスを捜し見付けようと長い旅をしていました。 イエスを見付けて、彼女は「ダビデの子、ダビデの子」と叫びながらイエスの後について来ます。 彼女はダビデの時代に、イスラエル人たちによって破滅させられた民や奴隷にされた民に属していたので、自分にとってはイエスが先祖代々からの敵でした。 「ダビデの子」と叫び続ける彼女は、イエスに歴史の悲劇的な出来事を思い起こさせました。 従って、ダビデの子孫としてイエスは彼女の叫びに厳しく言い返します。 「ダビデの子である私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と。 それを聞いて自分の間違いを理解したカナンの女はその後、イエスに向かって「主よ、主よ」と呼び始めました。
カナンの女の信仰を試すために、イエスは彼女を一匹の犬と比較します。 古代から中東アジアの人々にとって犬は不潔な動物ですので、人を「犬」と呼ぶことは最悪な侮辱です。 今日でもイスラム教の人々は「キリスト者とユダヤ人が不忠実な犬」だと言い続けています。 イエスはためらうことなく、偉そうに、奇妙なニュアンスで「小犬」と言っていますが、彼女を犬のレベルに置いています。 この侮辱を受け、カナンの女はイスラエル人に対して自分の方が劣っていることを認めながら、知恵に満たされた返事をイエスに返します。 「小犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです」と。 この賢い答えを聞いたイエスは彼女の願いを叶えざるをえませんでした。 「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。 あなたの願いどおりになるように」と感嘆の情を表して、イエスは断言します。
すべての人を救うために神はわざとイスラエルの民を選びました。 神は、イスラエルの民を通して世界のすべての民を救いたいからです。 そのことを知っている聖パウロは、異邦人たちが喜んでキリストを信じているのに、ユダヤ人たちはイエスを強く否定しているのを見て、大きなショックを受けました。 ローマ人への手紙の中で、聖パウロはこの奇異な状態を説明しようとしました。 聖パウロにとっては、すべての人は神の憐れみによって救われますが、キリストが預言したように「後にいる者が先になり、先にいる者が後になります」(マタイ20,16)。
神の約束を受けたイスラエルの民が、自分を信じるようにイエスは強く願っています。 しかし、自分の努力が無駄であり、実を結ばないことを見ながら、自分が救おうとする人々によって、いつか見捨てられることをイエスは既に気づいています。 そのような状態の中でカナンの女に対してのイエスの態度の変化は、正に彼の心の広さを表しています。 同時にイエスの態度の内には、弟子たちのためにも、初代教会の信者のためにも、更に私たちのためにも、同じ心の広さや精神の自由さを持つようにと言う呼びかけが隠れています。
既に、預言者イザヤはバビロンの追放からエルサレムに戻って来た人々に、この心の広さを告げていました。 破壊されたエルサレムの神殿を建て直したら、イスラエルの地に住む異邦人たちはこの神殿に入り、同じ信仰に与かることを必ず願うであろうと預言者イザヤは教えました。 この新しい状況を前にして、どんな答えを彼らに与えるかについて、預言者イザヤははっきりと次のように宣言します。 「主はこう言われる。 わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(イザヤ56,71)と。
さて、キリスト者と言う神の新しい民の使命とは、ある建物や共同体の中で、神とひきこもることではなく、むしろその神を大勢の人に伝え知らせる使命だと、第二朗読を通して聖パウロは説明します。 「神はすべての人にご自分の憐れみを示す」と聖パウロは断言します。 従って、私たちに授けられた洗礼は、決してキリストを信じない人々と私たちとの間に隔ての壁を作るものではありません。 まして、キリスト者同士の間で、このような壁を作ってはいけません。 ですから、不注意によって私たちが絶えず作り上げる「不信感、嫉妬、偽り、悪口の隔ての壁」を早めに壊しましょう。 信仰が違っても、葬儀や結婚式や七五三やクリスマスのような祝い日に当たって、一緒に祈るために武庫之荘教会を訪れる方々に対して、私たちの共同体が開かれた共同体、差別しない共同体、互いに愛し合う兄弟姉妹の共同体でありますように。 そして、ここで私たちの祈りの支えや慰めの言葉やあるいは信仰の光を探し求める人々に対して、この武庫之荘教会の門も、自分たちの心の扉も、いつも開かれるように、神の眼差しのもとで勤めましょう。 アーメン。
年間第21主日A年 2014年8月24日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ22,19-23 ローマ14,33-36 マタイ16,13-20
イエスに対する人々の意見がぼんやりしていると同時に、イエスは過去の人物のような人だと人々は思い込んでいます。 反対に全ての弟子の名によって、真理を持って宣言するペトロの意見は、はっきりしています。 「あなたはメシア、生ける神の子です」と。
「わたしは彼の肩に、ダビデの家の鍵をおく。 彼が開けば、閉じる者はなく、彼が閉じれば、開く者はないであろう」と、預言者イザヤを通して言われる神が、エルヤキムにエゼキア王の宮殿の管理人の責任を与えました。 イエスはペトロに新しい責任を与えるために、預言者イザヤが宣べた同じイメージを使います。 それは「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。 あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。 あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と。 天国の鍵を持つよりもペトロ自身が生きた鍵であります。 と言うのは、使徒の宣教の本の証しによると捕虜にされたペトロの前で、牢の全てのドアが自然に開かれました。 ペトロを解放する天使とペトロ自身も「第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに開いたのでそこを二人が出ました」(使徒12,10)。ところが、 聖ルカの話のユーモアと言うのは、マルコの家と言う避難所に辿り着いても、誰かがドアを開けるのをペトロは待たなければなりませんでした。 「門の戸をたたくと、ロデと言う女中が取り次ぎに出て来た。 ペトロの声だと分かると喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた。 …そこでペトロは戸をたたき続けた」(使徒12,13-16)のです。
自分自身が心と精神のオープンさを持っていなければ、鍵の束を持つことは役に立ちません。 人々が神の慈しみ深い愛を歓迎するために、教会も教会に奉仕する司祭たちも、人々の心を開く責任を持っています。 教会と司祭たちは、神の全ての神秘への理解に、人々の知恵を目覚めさせる重大な使命を持っています。 と言うのは、教会と司祭たちは、信仰や赦しや希望の門を開く鍵の束を持っているからです。
「あなたはメシア、生ける神の子です」イエスの全ての弟子たちの名によって自分の信仰を宣言することで、全世界が自分の信仰に与るようにペトロは招きます。 同様にペトロに与えたご自分の答えによって、イエスは全世界の人々にペトロが誰であろうと彼の使命がどんなものかを啓示します。 ペトロはキリストの教会に揺るぎない土台と永続性を与える選ばれた岩です。 ちょうど、預言者イザヤの時代にエルアキムがエルサレムの宮殿の管理人に定められたように、ペトロはキリストの教会の管理人です。 ペトロに地上で「繋ぐ事と解く事」の権力を与えることによって、イエスはペトロを地上での自分の代表者と定め、しかもこの代表者の全ての行いは神ご自身によって保証されているのです。
最後にイエスは教会のアイデンティティ、即ち本質を啓示します。 教会とは「あなたはメシア、生ける神の子です」と言う、ペトロが公にした宣言を自分のものとする人々の共同体です。 イエスを自分の救い主と認める全ての人は、キリストの教会に属しています。 教会は神の国のまだ完成されていない目に見える姿です。 教会は寛容なので私たちに聖書と秘跡の宝物を与えることで、私たちの手に永遠の賜物の豊かさを委ねています。 教会は私たちにイエスを与え、また三位一体の神の神秘に与らせるので、私たちは全てを受けているために、全く欠けることがありません。 アーメン。
年間第22主日A年 2014年8月31日 グイノ・ジェラール神父
エレミヤ20,7-9 ローマ12,1-2 マタイ16,21-27
苦しみや失敗が私たちの人生を支配し、屈服させることを、預言者エレミヤと聖ペトロがしたように、私たちも断ります。 エレミヤもペトロも暴力や不正や死などの人間の幸福の邪魔をするすべてのものを激しく退ける人でした。 勿論、私たちは彼らの態度に全面的に賛成します。 しかし絶え間ない迫害やいじめの的になっている聖パウロは、「賛美の生贄として」自分の不幸や災難を神に捧げます。 更にパウロは、私たちがこの態度を真似るように強く勧めて、「これはなすべきまことの礼拝」だからと主張します。
実に私たちにとっては、預言者エレミヤや聖ペトロの考えに同意するのは簡単です。 主イエスが言われたように、私たちの考えは神の考えから遠く離れていて、また私たちの行いも信仰の道を歩んでいる人々に対して「躓き」となっていることが多いです。 私たちが神の事を思わず人間のことを思っている時、私たちは大きな間違いを犯すだけではなく、神ご自身を退けているのです。
と言うのは、十字架を担うことを拒むことは、失敗や苦しみや災いや愛する者の死のうちに、暴力や不正や不条理な出来事の勝利を認めることに賛成することだからです。 ここに、サタンの影響がはっきりと現れています。 事実、十字架を担うことを拒むことは、様々な不運や逆境にも拘らず、神が私たちの内にある「生きる喜び」や「生きる希望」を支え続けることを拒むことです。 十字架を担うことを拒むことは、結局、希望の恵みと聖霊の力を拒むことです。 そう言う訳で、試練で覆われている私たちの人生を「神の栄光への賛美」(エフェソ1,6)として捧げるように聖パウロが強く勧めています。
孤独な生活を送った預言者エレミヤは、自分の親族を初めとして皆から、理解されず迫害されている独身者です。 生涯にわたって、エレミヤは乱暴を受け、牢に閉じ込められて、遂に異邦人の地に追放された後、死にました。 数えきれない試練を浴びた預言者エレミヤは、自分の使命と共に苦難の生き方を捨てようとしました。 しかし彼が耐え忍んだ苦しみのお蔭で、エレミヤが自分の内にある神の現存を深く体験しました。 その結果、預言者エレミヤは次のように証しします。 「わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。 押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました」と。 新しい力で満たされたエレミヤは、もう一度勇気を見い出して、神がイスラエルの民に遣わされた預言者となることを承諾しました。 同様に、イエスの厳しい咎めと戒めを受けたペトロは、もう一度キリストに従う従順な弟子となることを承諾して、謙遜に自分の地位に戻ります。 「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない」(マタイ10,24)ことをペトロはよく悟りました。
私たちは聖パウロが書き記した言葉を実現するために、その言葉を何回も良く聴く必要があります。 「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。 むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と。 私たちは聖霊の力をいただいているので、何とかして、私たちの考えが神の考えを反映するように、また、どうしても私たちの行いが自分たちの内にある神の現存を現すようにしなければなりません。
お互いのために祈り合うことによって、神がいつまでも「私たちの人生の神」、「私たちの命の主」であることを発見するように努力しましょう。 きっとこの人生がいつか十字架の道行きになっても、この道の終わりに栄光と永遠の喜びが私たちを待っていることをよく知っていますし、信じています。 ですから、信頼と希望のうちに、なにも恐れずに、主イエスの後に従って歩みましょう。 アーメン。
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